前橋市の歴史

◇前橋市の歴史

名称未設定-3
前橋は古くは「まやはし」と称しました。
「厩橋」が「前橋」に改められたのは西暦1648年から1652年、酒井忠清が城主であった頃だと言われています。
「厩橋」の名は、現在利根川の流れているあたりに車川と称する流れがあり、そこにかかっていた橋を「駅家(うまや)の橋」と呼んだことから、自然に地名になったと伝えられています。

前橋市域には、700余基もの古墳がありました。この中には、東国では最も古いとされる天神山古墳から、終末期古墳の典型とされる宝塔山古墳に至るまでの 各期のものがあります。また、墳丘や石室にも巨大なものがあり、副葬品にも優秀なものが多く出土しています。
こうした優れた古墳文化を背景として、律令体 制の中にあっては、国府設置の場となり、上野国の政治的中心地となりました。このため国分寺や山王廃寺などの建設されるところとなり、仏教文化の華が咲き ほこりました。
群馬(くるま)の郡、駅家(うまや)の郷、群馬(くるま)の駅など前橋の地名が出てくるのが10世紀平安中期で、平安から鎌倉時代にかけては、日輪寺の十一面観世音像、善勝寺の鉄造阿弥陀如来座像がつくられました。
厩橋城が築かれたのは文明年間(1470年代)とされていますが、この城は戦国時代、上杉・武田・北条氏等の攻防の的となり、特に永禄10年(1567 年)の戦いでは、武田・北条氏のために、当時繁栄していた天川原、六供方面の町並みが焼き払われ、街の中心は旧利根川の河原であった低地に移りました。こ れが現在の中心街です。(利根川の変流は1400年代だと言われています。)
徳川時代になって酒井氏が川越から移って城主となり、9代150年の長きにわたって城主となり、その後松平氏に代わりましたが、松平氏は利根川の洪水によ る城地決壊のため、わずか19年で川越に移城し、前橋は99年の間廃城の状態が続きました。このため街は衰微の極に達したので、城の再築を願って街の復興 を図り、慶応3年(1867年)松平氏を再度前橋に迎えましたが、まもなく明治維新となりました。
これより先、前橋の主産業の製糸は安政6年の横浜開港と藩主松平氏の奨励により盛んとなり、明治に入って「糸のまち」前橋の名はますます高まりました。
明治14年に県庁が前橋に置かれることになって街の繁栄の基礎が築かれ、明治22年町制を施行、同25年県内最初、関東で4番目、全国で41番目に市制を施行しました。
その後、明治34年上川淵の6大字を合併、43年には1府14県の大共進会を開催、大正年間に北部、南部の両耕地整理、昭和に入って上水道を布設しました。
太平洋戦争終結の直前、すなわち昭和20年8月戦災を受けて中心市街地の8割を焼失するという被害を受けましたが、これを機に戦災復興事業を施行して市の 復輿を図るとともに、29年以来近接町村を合併して市域を拡大し、35年には消費都市から生産都市への転換を目標に、首都圏都市開発区域の指定を受けて工 場誘致を実施し大いに成果を上げました。また、近代的都市建設のための都市改造事業、区画整理事業等を積極的に進めるとともに、42年5月に城南村を合併しました。
平成13年には特例市の指定を受け、平成16年12月5日には、大胡町・宮城村・粕川村と合併しました。平成21年4月には県内初の中核市へ移行するとともに、5月5日には富士見村と合併し、平成24年には市制施行120周年を迎え、さらなる飛躍を続けています。